#その他

医療の空白地をつくらず、地域医療を支えるということ

上川ひろみさん

2022.05.21

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Aエリア_日ヶ谷_養老_世屋

子育てがひと段落し、第二の人生をジャズシンガーとして伴侶と過ごすため宮津に移住した上川さん。そのための移住だったはずが養老地区で診療所を開業し、地域を支える一員となることも選んだ上川さんの思いとは。

想定していなかった診療所での仕事

――海がと山がすぐ近くにあり、のどかな農村地域という印象を受ける養老地区ですが、実際はどのようなところですか?

人口は千人くらいで、多くの住民が漁業や農業を営んでいます。人口の半数以上が後期高齢者の方で、小学校もあるんですが全校生徒で20人弱くらい。診療所に来られるのも基本的にご高齢の方たち。印象的にはほとんどが80代以上で、60代の方が来られたら若いなって思うぐらいです。診療所以外の病院はなく、一番近い薬局でも14キロも離れているような、そんな地域です。

宮津の最北エリアで舟屋で有名な伊根町に程近い

ーー上川さんは2年前に宮津に移住されたそうですが、どのような経緯で診療所を任されるようになったのでしょう。

結構長い話になってくるんだけど(笑)私はもともと、大阪で小児科を開業していたんです。子供が好きで、大学を卒業してからずっと小児科医でした。娘が生まれてからは診療は半日だけにして、子育てと仕事を両立させてきましたが、十数年前、娘が独立して東京に行くというので、今まで子育てに使っていた時間を趣味に使おうと音楽を始めたんです。そのときにジャズピアニストの今の伴侶と出会い、ジャズを習い始めて、それからは、老後を見据えて音楽中心の生活を送っていこうと思っていました。そんなときに彼が、子供の頃に住んでいた宮津に帰って音楽がしたいと言い出して。私も宮津には年に2回は必ず訪れていて、すごくいい場所だと気に入っていました。それで2020年の6月に住み始めて、それがちょうど60歳のときね。

伴侶と共に音楽活動をされている上川さん。各地でライブを行われています(ご本人提供写真)

――そのときは、宮津で音楽中心の生活を送っていこうと思っていたんですね。

そうなんです(笑)来た当初は医師の仕事はアルバイト程度という感じで、予防接種とか、ほかの先生が受け持っている仕事をフリーランスのような形でお手伝いするくらいでした。でも、2020年11月に養老診療所の前任の先生が体調を崩されて突然閉院されることになって。地域の医師会の先生たちに『頼むから、後任をやってくれないか』とお願いされたんです。最初は無理ですとお断りしました。でも、地域の先生たちは本当に努力されている方ばかりで、ものすごく意識の高い先生方が、地域医療を支えるために頑張っている。そんな中で、私が断れば、このエリアが医療の空白地になってしまう。それではいけないと。先生方や地域で医療を必要としている方の思いにこたえるために、申し出を受けようと覚悟を決めたんです。そして年明けの1月から開業することになりました。養老診療所は行政が建てた公設民営の医療機関で、建物は行政のものですが運営は個人になり、開業ということになるんです。

――開業だけでも大変そうなのに、急なら尚更ですね

引き受けることにしたんですが、不安はいっぱいありました。ずっと小児科医だったから、内科の診療をしたことがなかった。内科の薬なんて何も知らなかったから、毎日毎日家に帰って猛勉強でした。国家試験のときでもこんなにしなかったなってぐらい。明日行ったら患者さんを診なくちゃいけないって思うと、毎日切羽詰まっていました。それぞれの患者さんがどういう経過でどういう病気でっていうのがわかるようになるまで、半年くらいかかりました。養老診療所のスタンスっていうのはかかりつけ医だから。ほかの病院に通っていても、ここに来てくださっている患者さんの意識としてはここがかかりつけ医なんです。だから、一人ひとりの長い病歴と事情を把握していないといけない。慣れるまでにはすごく時間がかかりました。1年たってようやく、地に足をつけて診療できるようになってきたなという状態です。

何年も通い続けている人が多いこの診療所では1人の人の病歴も驚くほど多く、その経過を辿るだけでも大変な作業。

先細る僻地(へきち)医療、それでも無くしてはいけないという思い

――今まで都会でやってきた仕事とのギャップは感じますか。

非常に感じます。まず、ここでは設備や薬が整っていない。大阪ならなんでも手に入っていたのに、ここではいろんな制約があって、自分の思い通りの医療はできない。だからこそ、その中でどれだけ最大限の医療ができるかっていうのを、今も模索している段階です。都会型の医療にはない悩みがいっぱいあります。ここで開業していると、僻地医療のなり手がいない理由がよくわかります。経営的にやっていけないんですよね。私がここに来てから、患者さんは20人以上減っています。新規の患者さんも少しはいるけど、それ以上のペースで患者さんがお亡くなりになったり、施設に入ったりしている。私はこのペースでいくと、5年で3分の1くらいは減ってるんじゃないかなと思っています。

独居の多いこの地域では、1人で暮らさんなんから人に迷惑かけれん、と予防接種なども積極的に受ける健康維持に意識の高い方が多い。

――たしかに、地域の医療には難しい問題があります

それでも、この診療所ををなくしたくないという患者さんのニーズや医師会の思いがあります。ここに来る患者さんが全員行き場をなくしたら大変なことになると思ってます。いま来ている人の行き場をなくさないこと。医療サービスの質を落とさないこと。それが、私がここでやっている意義だと思っていますし、やりがいにもなっていますね。

最小にして最強のチームでの診療

――地域の診療所というのは、病気を診るという以上に大きい役割を持っていますよね。

そうなんです。かかりつけ医というのは、病気だけ見て『はい、おしまい』というだけではいけない。患者さん一人ひとりの事情とか家族との関係などを深く考えながら医療をするとなると、その人の人生を支えているような気持ちになります。独居の人も多いですし、最近どんな生活をしているのか、とかそういうところまで考えていかないといけない。生活について遠方に住む家族を含めどうしていくか最善策について話し合いをすることもあります。そういう時、ずっとここに勤めていて患者さんのことを本当によく知っていてる2人のスタッフにすごく支られています。彼女たちの存在がなければ、私はここでやっていけなかったと思っています。

看護師さんと事務員さん。上川先生が来てくれて、何十年も通ってる人が路頭に迷わなくて済んだし、何より上川先生が丁寧に患者さんに接してくれるから薬を処方してもらうためでなく、ちゃんと診察しに来るようになった人がたくさんいるとうれしそうに話されていました。

――2人のスタッフの方とは信頼しあっている空気を感じます。

前任の代から勤めているので、患者さんのバックグラウンドもよく知っているし、いろいろわからないことを教えてもらったりしてます。二人は私の宝ですね。誰が抜けてもこの診療所はなりたたないし、最小にして最強のユニットだと思う。二人のどちらが欠けてもなりたたない。だから、私たちは3人で一緒に診療所を支えていこうっていう思いが強いです。

今は高齢者が多いが、地域に子供が多かった頃に書かれた窓枠の落書きに養老地区の歴史が見えます。

治す医療ではなく寄り添う医療を

――この診療所で働く中で、医療の役割について改めて考えることはありましたか?

言い方が難しいけど、一番感じているのは、人の寿命はなんともしがたいってこと。だから私は、1日でも元気に生活できる手伝いをしているという感覚でいます。私があなたの寿命を延ばしてあげますっていうのはおこがましいなって。小児科の時は病気を治したっていう達成感はあったけど、ここでは患者さんの病気は慢性的で治らないものが多い。だから、一緒に元気に過ごしていきましょうねって感じかな。あとは、私も地域の高齢者を支えるいろんな仕組みの中の一員なんだって思いが強いです。みんなで患者さんを支えていくような感覚がある。宮津は医療という面ではすごく手厚いと思う。高齢の人のためにすごく努力をして医療の質を維持しようとしている。そういうのが見えるから、患者さんの安心感につながっていると思います。

――今後はどんなふうに活動していこうと思っていますか?

とにかくここまでは、私がしなかったらどうなるのって思いで、なんとかやってきました。それこそお尻に火ついたような感じで。いろいろやりたいこともあるんだけど、将来的には、たとえば骨密度を測る機械を入れたりして、予防医療的なこともやっていけたら。これからも患者さんがいる限り、医療の質を維持できるように、頑張っていきたいです。宮津に来たときは、余生を音楽で彩っていこうと思ってきたのに、仕事でめっちゃ忙しくなってるっていう(笑)だけど、きちんと両立させて音楽では地域の文化活動にも貢献していきたいと思っています。

上川さんの歌声はパワフルで聞く人を元気にする魔法の治療のよう。写真は仙台駅 定禅寺ジャズストリートで歌う上川さん。(ご本人提供写真)

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